タイ料理屋で働いていた頃の話・その11

ずいぶんと開いてしまいました。過去の経緯はこちらからどうぞ。

「タイ料理屋で働いていた頃の話」

友人の車で自宅まで戻ってきたボクら。そのまま寝室へ向かいます。ノックはすっかり酔っ払っていて、話もできるような状況じゃなかったので、服だけ着替えさせて、そのままベッドへ運びました。ボクは、ノックを寝かせた後にふらふらと家の外に出ます。当時、まだボクは喫煙者だったので煙草を吸いに出たのです。東京の空と違って、真っ暗な空には星がきれいに見えていました。こんなに星って見えるもんなのかー、とか思っているとふと人の気配を感じます。そこにいたのは、ノックの息子・ブックでした。

その時まで、彼とはほとんど話らしい話はしていなかったのですが、なぜかこの時、彼はボクのそばにいました。煙草を吸っている間、じっと近くで座っています。つたないタイ語で話しかけても、はにかむのみで返事はありません(ボクのタイ語が伝わっていなかった可能性も有るんですが…)。タバコを吸い終わって、部屋に戻ろうと思った時、ブックはボクに一枚の写真を見せました。それは、ノックとブック、そして恐らく父親が一緒に写っている写真で、何処かのお寺で撮られたもののようでした。ボクが写真を返すと、彼はそれを大切そうにビニールで出来たカバーに仕舞い、部屋に戻りました。今思えば、あれは彼なりに自分とノック、そして父親の関係性をボクに示したかったのかもしれません。その後、ボクも部屋に戻りベッドに潜り込みます。長い一日が終わりました。

翌朝、目覚めた時にはノックは既にベッドにはいませんでした。日課の畑かと思ったのですが、どうもそうでは無いようです。母親に聞いてみても、要領を得ません。とりあえず、出してくれた朝ごはんを食べて、自室に戻ってクーラーの効いた部屋でぼーっとしていました。間もなくお昼になろうかという時間帯に、何やら下が騒がしくなっています。その騒がしさがだんだんと部屋に近づいてきます。今回の旅で色々と経験してきたボクはすぐにピンときました。

……ははぁ、コレはまた何か起こるんだな。

と、その思いが頭から抜ける間もなく『バンッ!』とトビラが開きました。そこには、頭モジャモジャでガリガリ、ボタンが一つも留まってないシャツがはだけて刺青だらけの肌が見えている、人相の悪いというか、貧相な男でした。家の中まで咥え煙草で入ってきています。その佇まいと顔を見た瞬間にわかりました。これは、ノックの旦那でしょう。

「#^$っpくぇmくぇおっpmp^!*(*^$%@$!!!」

ベッドに寝そべっていたボクに対して怒鳴っています。もちろんタイ語なので全くわかりません。怒鳴りつつも、煙草はちゃんと手に持ち替えていました。彼の後にはノック、前には若い男性が一人。その男性がいたので男は飛びかかるのをとどまっている感じです。若干呂律も回っていない感じだったので、お酒、はたまた薬をやっていたのかもしれません。ジェイと呼ばれる、そのノックの旦那は恐らく時間にして1分もいなかったと思いますが、それが数分に感じるほどには嫌な雰囲気の中、叫び倒して去って行きました。正直、何かしらされるだろうと思いましたが、特に武器らしいものは持っていなかったので、殺されるまではいかないかなぁ、と妙に冷静に彼の手元の煙草を見ていたのを覚えています。

ジェイの前にいて止めていてくれた男性は、彼の弟・エーでした。(親もギャンブル狂らしく、子どもはJとAでブラックジャック…)。ノックの義理の弟にあたります。エーはジェイとは違い、かなり真面目に暮らしていて、一家の家計も(恐らく兄の酒や薬代も)彼や彼の奥さんの稼ぎから出ているとのことでした。実は、ノックが今朝、息子・ブックの保険のことなどについて話をしに行ったといいます。夫婦でいるときに入れた保険で、契約の更新だか切り替えだかにジェイのサインが必要だったのです(以前書いた通り、この時点でもまだ離婚届を出していなかったのです)。またタビアンバーンと呼ばれるタイの住民票(一家に一冊ある)もジェイの元にあったとの事で、それを貰いに行ったらしいのですが、ボクが村に来ていることを知っていたらしく、二人は会った瞬間に喧嘩になり、そのままノックの家まで来たとのこと。エーは何が起こるかわからないのが心配で一緒についてきてくれたのです。ジェイの行動にも呆れますが、ノックが一人でのこのことアル中でヤク中の旦那の元に行ったのにもホトホト呆れました。ノックはアル中の旦那は基本的に午前中は寝ているから、その間にタビアンバーンを取って来ようと思ったと言います。サインはどうしようと思ったの?と聞いたら、帰るときにちょっとだけ起こして書かせるつもりだった、とサラリ。この後も色々と悩まされることになるのですが、タイ貧困層、低学歴の女性たちは本当に計画性とかありません。その場の考えのみで行動します。しかもその自分の考え、行動に一縷の疑いもありません。全部正しいのです。その行動力が良い方に作用する場合もまれにありますが、大半はろくでもない結果となります。

ノックは私は悪くない、と逆ギレしています。ボクも別にノックを責めていなかったのですが、逆ギレされるとなんだか腹が立ってきます。そもそも、なんで一人で行くんだろうか…とか、とはいえ『一緒に行ってくれ』と言われてたら行ったのかな…とか色々と考えつつ、若干の口論をしつつ下に降ります。すると、まだ庭にジェイがいるのが目に入りました。しかも、ブックを抱っこしてるじゃないですか!結構大きいのに!そして、そのブックといえば…満面の笑みだったのです。これにはなんだか、もう、笑ってしまいました。もしかしたら自分の息子として育てることになるのかも?とか真剣に考えた事が、急に馬鹿馬鹿しくなってきます。ノックは、すぐに庭に出てブックを呼びます。しぶしぶといった感じで部屋に戻ってくるブック。ジェイはちらりとこちらを見ると、意外に大人しく弟と一緒に車に乗って帰って行きました。

部屋に戻ったブックを抱きしめるノック。ボクのことは全く気にしていません。さすがにボクも我に返りました。これは恋愛とか、そういうことではないなぁ、と。彼女、彼らには現実があり、良くも悪くも”生活”がある。こんな”生活”を乗りこなすバイタリティは、今のボクにはまるで無いなぁ、とはっきりとわかったのです。場末のタイパブやタイ料理屋で馴染みになったり、タイ語を覚えたあたりで悦に入ってるなんてのは、序の口の序の口、入り口にすら到達していなかったわけです。濱岡さんの言っていた2週間にはまだ足りませんでしたが、自分の立ち位置を確認するには十二分な、濃厚な経験が出来ました。ボクはノックにいいました。

「ノック、ボクは日本に帰るね」

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